since2011-
私たちの住んでいた福島県は、東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所の事故により大きな被害を受けました。そして311の経験が私たちの人生を大きく変えました。多くの苦しみや悲しみの中で最たるものは、放射能による人間関係の分断が起きたことでした。復興か避難か、県産の農作物を食べるか食べないか、目に見えぬ放射性物質を気にするか気にしないかに至るまで、選択の違いは暮らしの細部に及びました。家族や親しい友だちの間ですら否定し合ってしまっていた当時の福島。私たちにとって「それぞれの選択が尊重される世の中であってほしい」と心底願った原点となりました。
-2013-
震災をきっかけに出逢った私たちもまた、結婚に至る過程で、選択の違いに苦しみました。女性であり将来子どもを産み育てる役割を持つ不安から、北海道へ避難した慈と、地元南相馬の復興を目指して活動していた孝介。人生を共にしたい気持ちは共通するものの、互いの選択が異なるため一時は全く折り合いがつきませんでした。何度も挫け、時に別れ、それでも諦めず導きだした答えは「どこに住むのか?子どもや仕事はどうするのか?というプロセスではなく『共にある』という覚悟を先に決めよう」という決断でした。自分ともお互いとも福島のこととも「向き合い続ける」という覚悟でもありました。
-2014-
第一子の出産をきっかけに、孝介は仕事を辞め北海道に移住しました。サラリーマンではなくフリーランス(在宅)で働くことを選び、孤育ては免れたものの生活は厳しいものでした。ネットを介在した仕事を受注し、月数万円ほどの収入と仲間と借りていた畑から採れる野菜たちで食い繋ぐ日々が続きました。それでも直観的に「無理をするのは違う」「お金のためだけの仕事はしたくない(自分に嘘をつきたくない)」という想いがありました。
-2015-
都会・札幌にいて、なかなか自分たちの軸が定まらなかったこと、食べ物やエネルギー、時間も消費型の暮らしに違和感を覚えていたことから、思い切って山と海に囲まれた漁村(島牧村)に拠点を構えました。島牧では、自ら田畑を起こし、古民家を直し、その日海からあがる魚を捌き、それらの恵みを物々交換で循環させて暮らしています。人間としてミニマムな生活は、底知れぬ心地よさがあり、生きる上での「本当の豊かさ」を知ることとなりました。島牧は、私たちにとって仕事か子育てか?とか、暮らしか仕事か?などといった、二者択一や両者のバランスをとるのではなく、ワーク・アズ・ライフ(暮らすように働く。暮らすと働くとの境界線がない状態)を実践していくきっかけであり、後に実践のための重要な場となりました。
-2016, 2017-
田舎・島牧村には納得いく教育機関がなかったこと、2人目の妊娠がわかり2人だけで働きながらの子育てに限界が訪れたことから、新たなコミュニティが必要になりました。子どもが自然体で自分らしく在れるコミュニティを求め、親子で一緒に通う幼稚園「創造の森 札幌トモエ幼稚園」へ入園を決めました。「自分とは何か?を探求する場」という理念と、親も子も園スタッフもそれぞれの選択を受け入れ支え合うコミュニティであるトモエ幼稚園。子どもたち親たちの在り方を通し、私たちもまた「自分とは何か?」に向き合い、自身の幼少期を振り返り、育った環境や当時の親の心境など、ルーツを深堀りしてきました。その過程で、夫婦や子どもと何度も喧嘩や対話を重ねてトライアンドエラーを繰り返してきました。その日々の中で私たちは、大人が育つ(育ち直す、自立する)ことが、子どもがよりよく育つことの根本であることを学びました。
2018
これらの経験を通し、私たちは「向き合うこと」の重要性を痛感していきました。また向き合えず悩み、苦しみながら暮らす人たちも大勢見てきました。 だからこそ、私たちの表現を通して1人でも多くの人に、向き合う人生の楽しさを、引いては自分の人生を生き抜く醍醐味を伝えたい。私たち自身の背中を見て、一歩でも二歩でも踏み出す人が増えてくれたらと思っています。 短い人生の主人公は紛れもなく自分自身です。「今」という自分は「今」だけで、パートナーや子どもと笑いあえる今日も、明日も続く保証はどこにもありません。今あること自体が奇跡です。 だからこそ真摯に「今」を生きてほしい。向き合うことから逃げないでほしい。そう強く私たちは思います。 自分自身と信頼関係をしっかり結び、パートナーシップ、ファミリーシップ、そして社会における自分の役割を全うする人と共に、私たちは生きています。互いの選択を尊重し支え合える、平和な未来を信じて。
2018年9月吉日
合同会社 番-TSUGAI-
伊藤孝介 宍戸慈